働くことは大昔から連綿と続く人間の生業だ。
はるか昔の人は、「働かないと生きていけない」という恐怖心から働いていた。
すこし昔の人は、「働けば働くほど生活が豊かになる」という高揚感から働いていた。
でも今はどうだろうか?
昇進には興味がない。
言われた仕事はやるが、それ以上は無理。責任は取りたくない。
残業はやりたくない。休みはちゃんと取りたい。仕事よりプライベートが大事。
恐怖心も高揚感もなく、将来の希望や使命も持たず、何となく働いている人々が増えた気がする。
もし、あなたの会社にこのような社員が現れたどうするだろうか?
ガムシャラに働こうとしない者を、無理やり働かすことに意味はあるのだろうか?
残念ながら、働き手の多様性はこれからも拡大する。労働意欲の高低差もどんどん拡大するだろう。
社会の変化はコントロールできないし、たとえコントロールしようとしても、自分が苦しむだけだ。何事もそうだが、変化に抵抗するより、変化を受け入れた方が障害は少なくなる。
労働意欲に乏しい人財を排除するのではなく、そうした人財も受け入れ、どうやったら組織のパフォーマンスが上がるかを考えた方が繁栄のチャンスに恵まれるということだ。
そもそも、日本人の勤勉な印象は明治以降のものだ。
江戸時代は、自らの才覚で勝負をかける人がいる一方で、身の丈にあった幸せで満足して生きる人がたくさんいた。
例えば、当時、職人の労働日数は年間80日程度で、週勤2日でした。役人ですら月番制度で一ヵ月働いたら、一ヵ月休むシフトがあった。
ここまで休むのは極端かも知れないが、バブル崩壊後は、ほどほどの仕事量で、のんびり気楽に生きる人々が確実に増えている。
大きな財産を形成したであろう団塊世代が平均寿命に達する2030年以降は、莫大な遺産相続の波が訪れるので、のんびりタイプがさらに増えるかも知れない。
色々な価値観を持った、様々な働き手の力を最大化するには、仕事の本質を共有することが大切だ。
仕事の本質は、言うまでもない。
お客様のお役に立ち、対価を受け取ることだ。
この仕事の本質を全うする難しさは、起業すると、身をもって知ることになる。
自分の才覚で事業を立ち上げ、自分の商品に絶対の自信があってもなかなか売れない体験を嫌というほど味わい、お客様のお役に立ち、対価を受け取ることが、いかに難しいかを思い知らされる。
当然、挫折する人もいるわけだが、起業経験のある人は、仕事の本質を抑えている。だから、失敗しても這い上がる術を持っている。
でも、普通の会社員は違う。
会社の中で自分が何をしているかも理解していないうちから決まった給料が毎月支払われると、次第に、何をしようとしまいと給料が支払われるのが当然という感覚になりがちだ。
すると、社内の空気を乱さない、余計なリスクは取らないという処世術を身につけた、本当の意味での仕事をしない社員が現れる。本来的な仕事は会社に行くことでもなく、社長や上司のご機嫌を取ることでもない。
お客様のお役に立ち、対価を受け取ることだ。
自分のやっていることは仕事として成り立っているのか。お客様が喜んで対価を支払ってくれるようなお役立ちが出来ているか。
将来にわたってお客様のお役に立つことができるか。今が不十分であれば、どうすれば仕事と言えるものができるようになるのか。
全社一丸となって、仕事の本質を共有し、追求するほど、お客様の役に立つことが組織のモチベーションの源泉になり、自然とお客様から愛される会社になる。
江戸時代の働き手は、休んでばかりの人々も多かったが、仕事の本質はよく心得ていた。
仕事は手を抜かない。
自分が納得できない仕事は御代を貰わない。
技を磨き、心を磨き、自分の仕事に誇りを持つ。
恐怖心でも、高揚感でもなく、あえて言えば「至誠心(まごころ)」のようなものが働く原動力になっていたのかも知れない。
また、そうした働き方が日本の豊かさの源流にあったと思う。
残業などしなくてもよい。
責任は上司や社長が取ればよい。
休みたければどんどん休めばよい。
しかし、仕事の本質だけは全社一丸となって徹底的に追求する。
一人ひとりの社員がそんな思いを持って働くようになると、みんなが豊かになる。
本質を追求することは、とても大変だ。困難も沢山ある。
それでも、その場しのぎに逃げることなく、本質を追求し続ければ、企業の永続性は着実に高まり、豊かさも拡大する。当然、会社が豊かになれば、社員やお客様の人生もずっと豊かになる。
(この記事は2024年3月に執筆掲載しました)